お守りはないの?

小学生の頃、クラスの友人から「〇〇ん家のお寺はお守りはないの?」と聞かれた記憶があります。そのときは(そういえばウチのお寺にはお守りがないなあ)と気づいたものの、友人にお守りがない理由など答えることもできませんでした。今なら答えることができそうですね。私たち浄土真宗のお寺には〈お守り、お札〉というものはありません。その理由について、東本願寺に参拝される方々に配布されているリーフレットの中に、とてもわかりやすく説明された文章がありましたので紹介させていただきます。

『お守りを持たない理由』

ー どこの神社でもお守りは売られていますし、お寺でも置いてないところの方が珍しいくらいです。形もさまざまで、昔ながらのお札(ふだ)、かばんなどにぶらさげるもの、またかわいいシールになっているものまであります。
効力にもいろいろあって、合格祈願や恋愛成就などの願いごとをかなえるためのもの。交通安全や家内安全といった無事を祈るもの。また、厄除けや病気平癒など嫌なことの消滅を願うもの、などなど。
しかし、本当に効力があると思っている人はどれだけいるでしょうか。願ったとおりにならなかったからといって、お守りを買った先を訴えたという話を聞くことはあまりありません。お守りが気休めでしかないことを実はわかっているのです。わかっていながら、軽い気持ちで、だんだんとはまり込むのです。たとえば、交通事故にあったのはお守りを忘れたからだとか、商売がうまくいかなくなったのは始めた日が悪かったからだとか、不幸が続くのは名前の画数が悪いからだとか。問題の原因さがしに追われたり、もっと効力のあるお守りをさがし求めたり、振り回されていくのです。
自分にとって良いことを追い求め、都合の悪いことを避けようとする、これは人間の性分といっていいでしょう。しかし、良いことだけを追い求める生き方は、必ず悪いことを恐れるようになります。そして悪いことが続くと、自分の人生までも呪ったりするのです。どのような状況に投げ出されたとしても、自分の人生は誰とも代わることはできません。しかし、それは同時に誰とも代わる必要のない人生なのです。お守りをもたないということは、善し悪しを越えて、現実と向き合っていこうとする生き方の表現なのです。
一楽 真 氏 大谷大学教授

いかがでしょうか。
自分の言葉を少しだけ付け加えさせていただくならば、浄土真宗には〈お守り〉は一つだけあるといえるかもしれません。それは、お念仏『南無阿弥陀仏』と称えること。私たちが南無阿弥陀仏と念仏申すときは、阿弥陀さまが私を呼びかけてくださるときです。それは自分自身と向き合う瞬間。善し悪しに振り回されず、今ある現実のわが身を見つめ直すお言葉。私自身を見失わないための〈お守り〉に他なりません。

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