「あきらめない」とはとても素敵な言葉ですね。夢をあきらめない若者、勝利をあきらめないアスリートなど「あきらめない」で努力を重ねる姿というのは心打たれるものです。しかしながらその反意語「あきらめる」という言葉こそ人生においてまことに尊いものといえそうです。
日本語で「あきらめる(諦める)」といえば、断念する、放棄する、ギブアップするなど、マイナスイメージで使われることが多いようですが、漢和辞典で「諦」という字を調べてみると悪い意味など一切ありません。「諦」の意味は日本語では「明らか・明らかにする」に近く、実際に「諦める」と「明らか」は同源の言葉とされています。
さらに「諦」の字は仏教語satya(サティア)の訳語として、真実、真理、悟りを意味する素晴らしい言葉でもあります。そして「諦める」とは仏教の大切な教えの一つ「どんなにがんばっても自分の思い通りにはならない」という真理をはっきりと理解するということです。可能性があるならば大いにがんばっていくべきです、しかし、どんなにがんばっても思い通りにならないことへの執着は「あきらめる」しかないといえそうです。
真理に添わない執着は「あきらめる」。そう考えると人生とは「あきらめる」ことの連続であります。むしろ「あきらめる」ことを繰り返すことで本当の目的、目指すべき目標が明らかになるともいえます。
世界一のメジャーリーガー、大谷翔平選手が高校時代に作成した「夢ノート」のエピソードは有名ですね。その夢を次々に実現する彼の「夢をあきらめない」姿には感動を覚えますが、本当の彼の凄さは、夢を実現するために節制を極めて数多くの執着を捨て去ったこと、すなわち「あきらめる」ことといえるかもしれません。